鳴ったのは無慈悲な発砲音。
「………え?」
咄嗟にキラが左手に持ち替えた銃をまず見た。
銃口は床に向けていたし、もう銃のトリガーに手を掛けてもいない。よってもちろん床に弾丸の跡があるはずもなかった。
キラが撃ったのではない。
ほっとしながらも、シンは自分がまだ無意識にキラの正気を疑っていたことに気付き、自己嫌悪した。
キラを信じるって決めたばかりじゃないか。悪夢のような洗脳だか催眠から解けたばかりの今のキラは、酷い困惑と、己の為した耐え切れない大罪に押し潰されそうになっている。
それを支えると豪語した自分が疑心暗鬼では、話にならない。
俺がキラを守るんだ!心の中で先程よりも強くキラへと誓った。
堅い決意を胸に秘め、シンは視線を銃からキラの顔に移そうとして、目線を上げる。
しかし瞳が彼の顔を移す前に、ゾッとする光景を映し出し、目が縫い付けられた。
汚れている。
先程まで、新調したばかりで小さな染み一つなかった彼の純白色の軍服が汚れていた。
紅く。
白い軍服は胸元からどんどん深紅に染まっていってゆく。
じわじわと、決して止まることなく溢れ出す赤い液体。
それは―――血。
“あの日”のような返り血ではない。
キラ自らの血が彼を真っ赤に染め上げていっているのだ。
どうして――?
働かない頭は放置して、シンはただキラを茫然と見詰める。
彼が撃ったのではない銃から逃れ、彼から滴る血から逃れ、やっとシンの眼は再び彼の顔まで到着する。
シンと同じくキラ自身も事態を把握できないようで―――軽く目を見開いて、戸惑う表情を浮かべている。
体勢も片手をこちらに向けたまま固まっている。
だがそう思ったのはシンだけ、あるいはシンとキラだけで、本当は銃声がしてから一、二秒しか経っていなかった。
ゆっくり、ゆっくりとまるでスローモーションをかけたかのように、キラの身体が傾いていく。傾きながら彼は上半身を捻り、振り返ろうとしている。
シンは自分に背を向け前のめりに倒れていくキラの肩を引っ張り、シンの身体がキラの身体を支えられるようにした。
シンの肩にキラの頭がぐったりと凭れかかる。
「……君か」
何かを納得したらしいキラの声の小さな呟きが耳に響く。
ちらりと近くにあるキラの顔に目線を動かすと、キラは前方を見ていた。
今の“君”はシンを指したのではないらしい。
では誰のことだ?
何が“君か”なのか
キラの視線を追うと、そこにはシンも顔見知りの青年が三人並んでいた。
一人はイザーク・ジュール。キラと同じ隊長格で、キラによく遊ばれていた短気で意外に熱血漢な人。
もう一人はディアッカ・エルスマン。ジュール隊長の諫め役で、軟派なように見えて、 しっかりとしている頼れる先輩。
二人は無表情を装いながら、いたたまれない視線を向けていた。
キラにではなく、完全に無表情で無感動な眼でキラを見据えているもう一人を。
アスラン・ザラ。不器用だが優しい人。元俺の上司でキラの幼馴染み兼親友。
彼はこちらに銃を向けていて、銃口からは硝煙が立っていた。
彼が……キラを撃った?
どうして。まさかキラが正気に戻った代わりに今度はアスランが狂い出したとでも言うのか。
しかし撃たれた張本人はショックを受けている余裕もなかったらしい。
アスランが次に起こす行動を予測してしまったらしいキラは、顔を恐怖に歪めた。
「ラクスは殺さないでっ!」
血を吐くような叫び声が木霊する。
イザークとディアッカはあまりに悲痛な叫びに足を止め、憐れむようにキラを見た。
しかしアスランは立ち止まらなかった。振り返ることもなく、淡々とした足取りでキラから遠ざかっていく。
「だめぇっ!!だめだ!!ラクスだけは!アスラン!!」
キラはアスランを止めようと、無謀にもシンを弱々しい腕で押して離れる。だが、シンの支えを失った身体は自分を支えきれずに倒れ込む。それでもキラは這ってでもアスランに近付こうとした。
「アスラン!お願っ……ごほっ…ぐっ」
遂に本当に吐血してしまう。それでもアスランは眉一つ動かさずにキラの前から消えようとする。
アスランが視界から消える寸前、キラは震える手で再び持ち替えた銃を発砲した。
銃弾は当らなかった。が、アスランの足は数秒だけ歩みを止めた。
「例えそれが最後のお前の願いなのだとしても、聞けない。狂ってしまったお前は――もうキラじゃない」
そう言い捨てると――シン達の視界から完全に消失した。
「…シ…ン…」
蚊の鳴くような細い声でキラに呼ばれ、急いでシンは倒れ込んだキラの背を抱き上げた。
意識が朦朧としているのか、キラの瞳は視線が定まっておらず、顔も蒼白く苦しげなのに彼は喋り続ける。
「ラク…を…守…って…ラク…ス…ま……ラ」
ラクスを守って
うわ言のようにそれだけを繰返す。
『はい』
そう言って、安心させたい。
だけど嗚咽で喉が詰まって声が紡げない。
その代わりにシンは力強く頷いた。
キラの表情から苦悶が消え―――微笑んだ。
シンは彼のこの静かで優しい笑みが大好きだった。
つい嬉しくて泣きながら笑い返すと、キラは右手に握り締めていた銃を捨て置いて、シンの頭を撫でた。
「…ラクスを……たの…」
既にかすかな掠れ声にしか出なくなっていた声は途中で、何の音も吐かなくなる。
頭を軽く触れていた手が重く伸し掛かって、トンっと地に落ちた。
「キラ?」
開かない瞼。
冷たい頬。
止まった呼吸。
動かない心臓。
知っている。
覚えている。
これが死体。
彼は―――もういない。
シンは絶叫した。
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